龐統士元

孔明と並び称される軍師でブ男

 伏龍、鳳雛と並び称され軍師として有名ですが、風采がよろしくなかったらしく、若いころはあまり人から評価されなかったそうで。この風采を、ブサメンと取るか、服装に無頓着と取るかでビジュアルが変わってくるのですが、三国志演義ではブサメンを、漫画やゲーム等では服装が奇抜だったり無頓着だったり、という方向にとらえる傾向が有るようです。

 劉備玄徳の蜀攻めの背中を押し、軍師として同行しますが、その途中死亡してしまうため「もし龐統が生きていたら!?」というifを語る人が後を絶ちません。逃がした魚は大きく見えるもんで、そういう事なんだろうなぁと、個人的には思っとる次第です。

 とりあえず、もうちょい詳しく見て行きましょうか。

簡単な年表

出来事
179年 襄陽郡にて誕生
?年 襄陽郡に仕官
209年? 功曹(人事権を持つ人)に出世。周瑜公瑾の指名っぽいです。
210年 周瑜が病死。遺体を呉に送り届ける。
?年 劉備玄徳の部下となり、耒陽の県令になる。
?年 仕事を滞らせたため罷免を喰らうも、魯粛子敬からもっと重要な職に就かせるようにとした手紙が劉備に届き、また、諸葛亮孔明からもフォローが入ったため再び劉備の下に。孔明と同じく軍師中郎将に任命。
211年 劉璋季玉が劉備を対曹操孟徳と、対張魯公祺の備えとして迎え入れる。元々内部工作で蜀取りのために招かれたものの、劉備はこれを渋る。龐統はこれを説得し劉備は重い腰を上げるが、当面は人心掌握に努めた。
212年 劉備と劉璋は不仲になった他、張松子喬の内通が露見して対立が決定的な物になり武力衝突へ。この戦闘中、流れ矢に当たり死亡する。

どこの家臣なのか、コレガワカラナイ

 年表をみて気が付いた方も居るかと思うんですが、周瑜にせよ魯粛にせよ、龐統と縁のある人は大体が呉の臣下の人で、また親交の深かった陸績公紀全琮子璜顧邵孝則の3名はいずれも重臣です。

 劉備の人事に対して口を出すのが魯粛と言うのも妙な話です。独立勢力であれば文句を言われる筋合いはなく、そんなに呉との交流が深いのであれば呉に仕官すればいいんです。この辺りの話を整理するために、元々、劉備と言う人がどういう活動をしていたのか、この前後どういう状況であったかを見る必要があるかと思います。

 元々、劉備自身は黄巾の乱の際に旗揚げをした義勇兵で、乱以降は諸侯を転々とする傭兵活動を行っていました。戦下手と良く称されますが、実戦経験と指揮経験に関しては随一でした。天下の大きな戦闘にはほぼ顔を出していましたので、ベテランの傭兵として引っ張りだこだったと言う訳です。天下の傭兵。

 龐統が劉備陣営に参加する直前には赤壁の戦いがあり、荊州を手中に収めんとする曹操を、劉備と孫権で押し返し、荊州の南部を奪い返したところでした。恐らくこのタイミングで周瑜が龐統を召し上げて郡の政治を預けたようです。

 劉備、孫堅の連合軍と言えば聞こえはいいのですが、劉備はこの時、地盤となる土地を持っていません。傭兵団の首領に過ぎない訳です。荊州四郡は劉備が周瑜の隙をついて収めたように描かれますが、実際は周瑜にせよ劉備にせよ、孫権から命じられたのであって、雇い主は孫権です。事実、曹仁子孝を包囲したのは劉備、周瑜の連合軍でした。手一杯だから他を担当したと言うのが正しいでしょう。

 血胸、独立勢力のように描かれるのは演義のゲタで、要するにこの当時、龐統も劉備も孫権の臣下でした。表向きは。

大恩ある周家

 で、話をややこしくしているのが周瑜だったりする訳です。蜀への侵攻模索しているだけでなく、その軍用に劉備や関羽雲長張飛益徳を予定していたり、劉備を皇帝に推挙しようとしていたり、この人一体何がしたいのかと。

 読み手の混乱の原因は周瑜が孫呉の臣下だと言う思い込みで、実際の所、周家は、孫家のパトロンです。孫策伯符の家族を保護したのが周家で、孫家は周家に恩が有る訳です。

 元々呉は豪族の同盟軍に近い集合体です。一応主君として孫家が立てられちゃいますが、当然派閥があります。つまり、派閥として周瑜派が存在する訳でして、魯粛は周瑜の臣下、すなわち周瑜派でした。龐統も召し上げられた経緯、そして遺体を送り届けた経緯から周瑜派であったと目されます。恐らくですが、前述の交流のある3名も周瑜派でしょう。

 陸績は共に袁術公路に面識が有り、孫策の部下として働きましたし、全琮は周瑜の死後、没落していく周家再興のため諸葛瑾子瑜(孔明のお兄さん)と共に動き、顧邵は記録が乏しいので明確ではないのですが、母親が陸績の姉ですからそこからのつながりでしょう。

 で、周瑜は孫策には臣下となったものの、孫権に対してはあまり協力的ではなく、赤壁が始まるまでは割とじっとしていました。赤壁にしても魯粛が劉備との契約を勝手に進めて孫権を説得したからそれに乗っかっただけです。どうも独立志向が強かったようで、荊州平定を期に独立勢力になろうと計画していたようでして。

 孫権と周瑜があまり仲がよろしくなかったであろうと言う推察は、その行軍からも見て取れます。赤壁をやっとる最中に孫堅は合肥を攻める訳でして。なぜそこで二面作戦を取るのか。片方が陽動と言うのであればまぁまだ納得も行くんですがどちらもガチ。連携が全く取れてません。

 上で表向きはとしたのはこういう事でして、孫権>周瑜>魯粛>劉備という流れがあるので表向きは呉の臣下なんですが、周瑜より右は周瑜派としてしまうとこの辺りのややこしい話は、かなりすっきりとまとまってきます。

 龐統が蜀攻めを必死に説得したのも、周瑜が思い描いていた夢を実現させたかったからで、これが劉備の思惑と合致し、かつ曹操の正反対を行こうとする劉備の建前を崩さないよう、上手く龐統がまとめたためです。劉備自身は蜀攻めの最中、宴会で大はしゃぎしとるぐらいですから、本音は地盤が欲しくて欲しくてたまらなかったんでしょう。

蜀攻め

 蜀に攻める前、龐統が片田舎に追いやられたのは、劉備自身、龐統が周瑜の家臣であり呉の臣下であるので、あまり信用していなかったという心理が挙げられるかと思います。その後、魯粛や諸葛亮のとりなしで一晩語り合った後、龐統を孔明と同様の地位に押し上げたのは、蜀取りで意見が合致したからでしょう。

 孔明と同じ地位にした所に、全面的な信用を置いていないというのを裏付けしていまして。当時、荊州は呉のもので、龐統は呉の重臣と交流のある名士でした。名声は孔明よりも明らかに上なんです。全面的な信頼を置いていれば、迷わず孔明よりも上にしたことでしょう。

 龐統も龐統で、蜀取りに際して劉備を使い捨てようとしている節があります。例えば、初会見の際に劉璋季玉を捕らえるよう進言したり、会見の後成都を奇襲しようといったり平定を急ごうとします。が、劉備自身、この当時はまだ傭兵でしかなく、諸侯を渡り歩いた結果、漢の領土をほぼ踏破しています。さらに、勢力もおおよそ固まっており、劉璋を無暗に殺してしまうと呉の次の雇先が無い状態です。なんせ、孫権の蜀を攻める案を以前否定していますから。蜀に入った時点で雇い主の意向を裏切っています。

 劉備は是が非でも蜀を地盤とせねばならなかったと。対する龐統は呉の領土が拡大出来ればそれでいい。二人の温度差がこういう所でも表れていると思います。

 劉備自身、蜀に向かうにあたって、荊州に昔からの家臣である張飛益徳関羽雲長らを置き、さらに孔明をも置いて、魏延文長黄忠漢升など比較的新しい家臣を連れて行ったのも、そうすることで荊州に戻ってきますよ、蜀へは一時的にコンサルで向かうだけですよ、というパフォーマンスのためでした。

 龐統の足早な献策を退け人民の人心掌握に力を注いだのは、蜀を地盤として独立せんがためでした。

 最終的に内通が露呈した事で蜀取りが実施されますが、龐統が存命の間は最初に連れて行った軍で。龐統が流れ矢により死亡してからは荊州に残した軍を総動員して、というのも、龐統が存命の間とその後では戦の性質が異なる、というのを良く表しているように思います。

三国志演義では

 さて、本当は呉の臣下なのではないかと言う疑惑が山盛りある龐統ですが、三国志演義に入ると、例によって例のごとく、劉備に忠義をつくす名軍師となります。ま、いつもの蜀漢正統論によるもの……かと思いきやそういうわけでも無く。蜀志にまとめられている、というのも大きな影響が有るかと思います。

 疑惑はおいといて、演義においては当然ながら、劉備のために献策を行います。が、当初は自分自身が鳳雛だと言わず、単なる仕官希望者として現れたため、劉備はその見た目から適当なお仕事に付かせます。(まぁ、それでも地方県令を任せるって大抜擢な気がするけど)

 暇な仕事に着けられるとやる気が無くなるのも人の常というやつでして、龐統は赴任先で酒を飲んでは寝るという仕事っぷりで、1ヶ月にわたって一切の手を付けなかったため、「ふざけんな!」と村人がお怒りに。そらそうだ。

 地元住民からのクレームを受けた劉備は張飛益徳を派遣して仕事っぷりを監督させたところ半日で終わらせてしまい、どすげぇ優秀な人材だという印象を読者にも植えつけます。そういえば孔明から紹介状を預かっていたなぁと、ぶっきらぼうな一面を見せ、この紹介状を読んだ劉備は慌てて龐統と語りあい、軍師へと抜擢します。

 これ以外にも赤壁にて火計を成功させるための秘策、船を鎖でつなぐ「連環の計」を献策して曹操を罠にはめるなど、非凡な才能を秘めた人として描かれます。

 天才肌で、外見や儀礼に無頓着な軍師タイプっていう一種のテンプレの原型は多分この人のこういう所かと思いますw

 蜀に入ってからも軍師としてあれこれ献策を行い、孔明ほどの派手さは無いものの、堅実な戦いを繰り広げ連戦連勝。成都を目指して次は雒城(らくじょう)を落すぞーとなったところで、たまたま劉備の白馬に乗ったがために劉備と間違えられて矢の集中攻撃を受け戦死します。

 軍師不在となれば軍が崩れるのは必至で、何とか押しとどめますが、劉備は龐統の死を大いに悲しみ、窮地を孔明に伝えます。これを知った孔明は、関羽を荊州に残して大攻勢を開始し、龐統の弔い合戦と言わんばかりに劉備軍は奮戦し、蜀は劉備の手に収まる事となります。

外史

横山三国志

 この人も劉備の人徳にやられちゃうタイプの人として登場します。見た目が不細工だとか汚いとかキテレツとか言うような事はありませんでしたw

 前フリとして周瑜よりも優秀なところを見せるため、連環の計にハメるまでは良いんですが、その帰りしな、元劉備の軍師であった徐庶元直にバレていて冗談で脅されるシーンは未だによく覚えています。演義ベースなので元々演義にあるお話なんですが。徐庶と同じぐらいに龐統はすごい人なんだなぁと、当時は思いました。

 孔明よりも後から参加し、赤壁前の、何十万人を引き連れての脱出劇に参加していないと言う手前、劉備からの信頼は孔明よりも劣っており、あまりにも二人の信頼関係が強すぎるため、それをうらやましいと思う所があったようです。で、自分もああいった関係を作りたいと。理想の君臣の関係みたいなもんがそこにあったんでしょう。それを目指そうと功を焦った結果、落鳳坡にて戦死してしまいます。

 え、もう死ぬん? っていう衝撃はかなりありました。

 今でも龐統がここで死ななかったらという話がちょいちょい出てくるのも良く解ります。前フリの方が長いんだもんw


蒼天航路

 遠慮なく物を言う、隻腕のイケメンとして登場します。遠慮なく物を言う所はおそらく、劉備がはしゃいでいたところを喧嘩になったと言うエピソードと、士官が遅かったのはそう言う癖のある性格で、だからこそ劉備ぐらいしか受け入れられなかったという表現なのかなと思います。

 赤壁自体が、ほぼほぼ周瑜の独力で成し遂げていたため、龐統は演義でのハイライトの一つである、連環の計でハメる出番がありませんでした。というか、船上で騎馬を操るために陸に近い形になるようにと自分たちで鎖につないでいた次第でしてw

 と言う訳で、初登場からしてすでに蜀内。援軍に来たものの取っちまおうぜと大声でやっちゃいけない会話を簡雍憲和とやっていた所に「ありえん」と言いながら登場してきます。その後も戦闘中、会議中関わらず、結構な上からの発言でちょいちょい劉備を怒らせるんですが僅か5話で退場。

 最期のシーンは、史実、演義と異なり、伏兵の砦を落しに行ったら実は地下で目的の城と繋がっていたため大苦戦をして、潰してきた代わりに致命傷を負いつつ、最後の報告をして息絶えるという、なんともあっけないものでした。

 孔明が人外じみている所が多々あったのに対して、こういう人いそう、っていう人間らしさを出してきたのも、伏龍、鳳雛の対比だったのかなぁと思ったりした次第です。

一騎当千

 漫画版の方にのみ登場、という事で実はよく知らんのです。(漫画版はストーリー展開が支離滅裂で苦手なのです)

 活躍は多少しとるそうなんですが、アニメ版ではDVD特典の声なしのmobキャラで登場した程度で、どういった活躍をしたかはすんません、良く解りませんw

恋姫†無双

 真・恋姫†無双より登場。はわわ軍師(孔明)にたいしてあわわ軍師と呼ばれる事も。当然エロゲのヒロインなので見た目は可愛らしい女の子でした。なぜ軍師がだいたいロリなのかは謎ですが……w

 二人してBLに走るなどの腐った一面がちらっとあったりはしましたが、軍師としての活躍はかなり少なく、印象はとても薄い子に。魏ルートに力を入れすぎたんや。多分。

三極姫

 じじいw 4で一気に若返るもののでも男。なんでやw ええねんけどもw

 じじいの間は徐庶の師匠という位置づけなんですが、この徐庶が一人前になるために犠牲となって死んでしまうシーンが意外とぐっとくるものが有るんで、今更ですけど買ってみようかなと言う人は、2がお勧めですw

 蜀ルートでは蜀取りがかなり序盤である都合上、かなり早い段階で死んでしまいますがその分性能も高く、頼りになるユニットでした。

関連人物

 いろいろとご家族はいらっしゃいますがさして重要ではないので割愛しますw

  • 最終更新:2017-04-25 10:32:30

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