陸遜伯言

呉の三代目軍師

 異論は認めるw

 特に横山三国志で育つと、周瑜公瑾魯粛子敬→陸遜と言うイメージがあります。実質的には魯粛と陸遜の間に呂蒙子明が入りますし、魯粛の戦闘の記録ってあんまりないので、人によっては、周瑜→呂蒙→陸遜かもしれませんし、周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜とする人も居るかもしれません。この辺りは好みですな。

 蜀以外に属する人では珍しく蜀漢正統論による影響が少なく、また、正史においても臣下の人物としては珍しく単独で一巻の伝を立てられています。同じく一巻を丸々使われた人は劉備玄徳などの君主と諸葛亮孔明だけですので、いかに陸遜がこの時代において重要な人物であったか、呉にとって必要な人物であったかが伺えます。

孫権に仕えるまで

 三国志演義を追っていると、関羽雲長との戦いでひょっこり現れるため、まるで昔から孫家に仕えていた人のように見えがちですが、この人にもこの人なりの歴史があります。

 陸遜の陸氏は、元々は廬江の太守でして、袁術公路が揚州を支配下に置くと友好的な態度で接していました。が、兵糧の問題によりトラブルが発生したため、当時はその部下であった孫策伯符により攻撃を受けることになります。

 この際、陸遜は族長の勧めに従って本籍の呉郡へと避難します。

 残念ながら廬江は孫策に攻略され袁術の支配下となりますが、孫策はこの後袁術からの独立を計ります。地盤を手に入れ、徐々に勢力を拡大していくのですが、その中に陸遜が避難していった呉郡が含まれています。

 急速に勢力を拡大させた孫策は足元を上手く固めることが出来なかったため暗殺されてしまい、これの跡を孫権仲謀が次いで内政を固めている頃、陸遜はやっと孫権に仕官します。

 こうやって経緯を追ってみると、意外と因縁のある相手であることがうかがえるかと思います。それと同時に、割と陸遜本人がそう言った部分にこだわりが無い人であるところも垣間見えてきます。

中原デビュー戦

 孫権に仕えてからは、最初は秘書官でしたが次第に軍を預かるようになり、その活躍でもって徐々に昇進していきます。とにかく内乱の平定が第一と言うのが彼の方針で、それにそって次々と反乱を平定していきました。

 孫権の覚えも良く、孫策の娘を嫁がせたり政治の意見を求めたり、呉の内部では着実に名声を高めていっていましたが、結局、内乱の平定ばかりやっていたため、呉内ではかなり有名なんですが中原では無名、と言う稀有な存在となりまして、この無名さが対関羽雲長においては切札として機能していたように思います。

対関羽

 劉備玄徳が蜀を手に入れ、呉の傭兵から独立したことにより、呉の傭兵時代に預けた荊州は呉に返せと孫権は要望をだします。が、劉備の側は折角手に入れている領地を手放す気は無く、両者の緊張が高まります。

 で、荊州はこの頃は魏の占領下にもあったため、蜀は魏とも対立状態にあり、荊州を誰が制覇するかは今後の天下の行く末を占う上でも重要な地域でありました。

 どことどこが先ずぶつかるのか。呉は蜀に返せといって緊張こそ高まった物の、まだ外交の範囲ですので直接対決は有りません。対して魏は、漢中において夏侯淵妙才の戦死、曹操自ら軍を率いて討伐に出たものの失敗して撤退。さらに荊州でも関羽と内通した反乱が出ているなど、実質交戦状態でした。

 この状態で劉備が漢中を手に入れ漢中王を名乗り、荊州の軍の指揮権が関羽が移されたことにより、関羽は曹仁子孝が守る南陽郡へと駒を進め、魏と蜀の戦闘が始まります。

 呉からすれば詐欺のようないい訳でだまし取られた荊州を取り戻す絶好の機会。という事で呂蒙に主命が下り、背後からの火事場泥棒が実行されます。が、この時の呂蒙は結構な重病だったらしく、代わりの指揮官として陸遜が推薦されます。火事場泥棒を遂行するには油断させる必要がありますが、かといって本当にお馬鹿さんでは無理です。実績があり、かつ関羽が名前を知らない陸遜はまさにうってつけの人材でした。

 陸遜も相手に名前が知れていないことを良く解っていたのと、関羽が非常にプライドの高い性格であるところを利用して、就任しましたっていうお手紙を送り相手を持ち上げ、安全な男を演出します。

 関羽はこいつに見事に引っかかりまして、呉に備えて兵士を配置してるよりは、当面の魏に相対させた方が良いと判断し、兵士の配置を変えます。

 兵士の配置が変わった事で呉に対する備えは当然薄くなります。元々関羽と人間関係でねじれが生じていた糜芳子方士仁君義両名を降伏させ一気に荊州を奪いました。帰る場所を無くした関羽は当然この奪還に挑みますが、呂蒙の戦略に敗れ死亡します。

対劉備

 関羽との戦いに勝利した陸遜でしたが、孫権などの一部の者はこの功績を認めたものの、一般的には呂蒙のものと判断されたため依然として無名に近い状態でした。彼が天下に名をとどろかせたのはその次の戦い。すなわち、関羽の敵討ちの為に立ち上がった劉備との戦いでした。

 後に夷陵の戦いと呼ばれるものですが、ここで劉備は大損害を出してしまいます。

 敵討ちとしましたがこれは大義名分で、主な目的は荊州の奪還であったと思われます。それが証拠に、怒りに任せて即座に出撃とせず、関羽が討ち死にしてから実に2年の時間が流れており、この間、訓練や計画などをじっくりと練っていたと考えるのが自然かと思います。

 劉備自身が冷静であったのはその補給線の作りから見ても明らかで、50以上の陣営を築いています。曹丕子桓はこれを聞いて「劉備は戦の仕方が解っていない」と評し、これが三国志演義に採用されていますが、これは次の主役たる諸葛亮孔明にバトンを渡すため、孔明の忠告を聞かなかったため失敗したとする意図があります。この陣の数は退路の確保などから考えても普通の行為かと思います。

 劉備の侵攻は破竹の勢いで行われ、呉軍は連戦連敗。孫桓叔武が窮地にあっても援軍を出さないなど、陸遜に対する不満が大きく膨れ上がっていました。元々書生上がりですし、内乱討伐などの功績もあまり呉内部では評価されておらず、諸将が陸遜をなめてかかっていたという背景もあるようです。

 劉備が荊州へと軍を動かしたのが221年7月。対して陸遜が反攻を開始するのが222年の6月ですから、ほぼ一年、好き放題やられていた事を考えると、諸将の評価も解らなくはないです。が、冷静に考えれば陸遜の選んだ手段、つまり持久戦は、敵討ちに燃える相手に対しては最適な解と言えます。

 復讐に燃える人は多少の傷があっても気力でそれを忘れますから、特に開戦直後の体力、気力が充実している段階では正面からぶつかると損害は大きくなります。普通なら投稿するような重傷でも戦おうとする人が出るでしょうから、そういう相手とは戦ってはいけません。

 しかし、人間慣れるもので、復讐に燃え続けられる人などそういません。11ヶ月も経ち、さらに連戦連勝を重ねれば、当初の怒りはいつしか油断へと変わり、油断が産まれると自身の疲労に気が付くようになります。陸遜はこの機を狙っていました。

 もちろん劉備自身、この当時は三国の中で一番戦争を経験していましたし、短期決戦が望ましいというのも良く解っていたと思います。実は短期決戦のため様々な陽動を仕掛けていたのですが、陸遜はそのことごとくを看破し、持久戦へと持ち込みました。

 荊州の拠点はもう夷陵のみという状況でしたが、裏を返すとそこまで深く進攻したという事でもあります。陸遜は、陣の一つを攻撃した際、蜀の陣が火計に弱いことを見抜き、運命の6月。ついに反攻が開始され、進攻して来た蜀軍6万を壊滅へと追い込みます。

 この大戦果をもってやっと周囲は陸遜を名軍師と認めるようになり、名実ともに呉の要として認識されるようになります。

 逆に蜀はこの戦いで数々の文官、武将を失い、また荊州を完全に奪われたため、益州に引きこもらざるを得なくなります。もしかしたらこの時、蜀は三国の中で一番最初に滅ぶ運命を背負ったのかもしれません。

夷陵後

 夷陵の戦いで周囲から認められてからも活躍は続き、戦闘での勝利はもちろん、内政に対する配慮、蜀との外交を一手に引き受ける等、記録に残る活動を多くしています。

 陸遜の賛成した事、提案した事は殆どが上手くいき、逆に反対した物はだいたいが失敗に終わっています。これほど優秀な人ですから、当然孫権の下で出世を重ねるのですが、孫権自身が加齢とともに更年期障害を抱えるようになります。

 元々感情の起伏が激しい人だったのですが、歳をとることでそれがさらに激しくなります。後継者問題で、孫権は4男を立てようとしていたのですが、当時の長子は3男でしたので、陸遜らはこちらを立てるようにと反対していました。が、これが逆鱗に触れたらしく、何度も何度も問責の使者を送りつけたそうで。

 結局陸遜は、孫権に対して怒りを抱いたまま天寿を向かえます。

 後に孫堅はこれを詫びますが、この一件では陸遜以外にも数多くの人材が処罰されており、その結末についても第三の人物が立てられるという結果で、両陣営からの不満が大きく出ました。結局、呉の国力は大きく衰退する事になり、破滅へのレールがこの時敷かれてしまいます。

外史

横山三国志

「適当にやっていればよろしい」

 っていう名台詞を産み出した横山三国志。物語としてはかなり後半からの登場となるため活躍の期間は少ない物の、やはり関羽を討伐したインパクト、さらに劉備を討伐したインパクトは非常に大きく記憶に残る人物であります。

 演義ベースですため持ち上げられることはあまりありませんでしたが、貶められることも無かったように思います。孔明の方が優れている演出のため石兵八陣にはかかりますが、元々そんな仕掛けは無いので優秀であると言う評価には影響を及ぼさないかと思います。

蒼天航路

 終盤も終盤、最終巻付近での登場となります。関羽戦が最後の大きな戦いですから仕方ないですなw

 横山光輝がデブいオッサンだったのに対して、こちらはかなりのイケメンw ただし、他の軍師のように活躍する場面はありません。仕方ない。陸遜が天下に名前をとどろかせる夷陵の戦いより前に曹操が死ぬんだもんw

 三国志が好きでない限り、誰? っていう印象で終わってたと思います。仕方ないw

一騎当千

 中学生闘士で登場します。「~ぞね」の特徴的な語尾を使うため、作品外では通称「ぞね」と呼ばれていますw

 あまり戦闘などでの活躍の機会はなく、アドバイザー的にちょろっと顔を見せる程度の出番しか用意されていません。

恋姫†無双

 呉の軍師として登場します。真名は「穏」(のん)。読書の虫で、知識に対して発情する性的嗜好の持ち主w

 穏の名前通り、穏やかでのんびりとしていますが、一応切れ者との事です。戦う場面はありませんが、一応武器を持って戦うことは出来るらしいです。

 呉では黄蓋公覆に匹敵する巨乳の持ち主。

三極姫

 顔キャラにも関わらず、あれ、いたっけ? とつい思ってしまう可哀想な子。

 主な原因としては、呉ルートの初期メンバーではないと言う点がやはり一番大きいように思います。それ以外にも、孫策伯符周瑜公瑾が戦力として優秀である事や、キャラとしてもこの二人が濃い事、後から加入してもその頃には活躍の枠があまりない等、色々と影が薄くなる要因がありますw

 ゲームシステムの問題もあるかもしれません。戦略SLGなんですが、精鋭6部隊から12部隊、多くても18部隊もあればクリアには十分で、使えない武将は行き場所が無かったりするんですよね。光栄の三国志などでは誰か一人武将を置かないと領地を放棄した事になりますが、そう言うのもありませんから。

 精鋭6部隊は正直ゲーム開始時に決定してしまいますし、残り枠も加入順に埋まって行きますしで、スタートメンバーでない場合はなかなか使う機会ってなかったりします。

 そんな訳で、実は使った記憶があんまりw 撃破した記憶はあるなぁw

関連人物

息子


  • 最終更新:2017-02-17 10:08:31

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