陳寿承祚

正史三国志の著者

 この人が居なければ三国志と言うものは恐らく存在……。したのはしたかなぁw というのも、誰かが別な形で三国志演義をまとめたとは思うので、今とは異なる形で存在はしたかと思います。より西遊記や封神演義に近い、仙人が活躍する内容になったかとは思いますが。

 いわゆる正史三国志とされるものをこの人が作ったおかげで、歴史的な史実(と思われるもの)に照らし合わすことが出来るようになり、そのおかげで三国志はより洗練されたのではないかなと思います。関索維之が主役の花関索伝に近い物になり、恐らくそれ以上の作品にはならなかったかと思います。寄るべき出典、史料のおかげで、人間関係やらできごとやらの整理、編集ができて、いい具合に嘘を交えることが出来たかなと。土台となる基礎をしっかりと作った功績と言うのはやはり大きいかと思います。

元は蜀の臣下

 陳寿自身は元々蜀の臣下です。
 
 父親は馬謖幼常と共に戦い、馬謖の命令違反が元で蜀軍が敗走した際に連座で処罰されています。この時に死刑こそ免れたものの官位は取り上げられました。そんな父親が罪人として生きている時に生まれたのが陳寿で、文才が認められて蜀に仕官します。

 この頃は劉禅公嗣の治世で、宦官の黄皓が実権を握ったおかげで国がガッツリと傾いていた時期でもありました。大人だとこういうのを世渡りで上手い事やれるんでしょうが、当時若かった陳寿は黄皓に何度も反発して、降格だの左遷だのを幾度となく喰らっておりました。

ロッカー

 泣きっ面に蜂と言う訳でも無いんですが、この頃父親が無くなりまして。喪に服している間、病気にかかってしまいます。この時、女中に薬を用意してもらうんですが、当時の儒教社会の感覚だと「喪に服す>自分の健康」というものだったそうでこれについて大きく非難を浴びることになります。後年、継母が無くなった際にも、継母の希望に従って都で埋葬するんですがこれがまた「生まれた地での埋葬>本人の希望の地での埋葬」という社会だったらしくこれも非難を浴びることになります。

 現代人からしたらべつに変な所はないのですが、当時はタブーとされていた事ですから、これを二度破るというのは恐らくは本人の性格に有るのではないかなと思います。この辺りは妄想ですが、元々生まれた頃から父親が罪人として暮らしているものの、諸葛亮孔明自身、自分で処罰した馬謖の遺族を丁重に扱うぐらいですから、連座で処罰された陳寿の家族も同様にそれなりの厚遇を受けていたのではないかなと思います。なので、社会のしきたりよりも生きている人間や本人を大事にするという感覚を身に着ける環境に有ったのではないかなと。

 事実、陳寿が下した三国志の登場人物の評価を見ると、過去のしきたりに合わせてどうこうだとか、社会的な通念に照らしてどうのではなく、その人の言動を直視して淡々と評価を下しています。よって、この時代にしては珍しく、儒教にとらわれない生き方をしていたのだろうなと言う所が伺えます。もっと砕いて言うとロッカーw

政敵多し

 いつの時代も、世の中のしきたりと言う物に対して疑問を抱く人と言うのは必ず存在します。陳寿がここまで悪評が残っているのにはやはりそれなりの理由が有るように思います。

 蜀に居た時代、黄皓によく反発していた事がやはり一番大きな要因であったのではないかと個人的には思います。生意気で失礼な小僧を二度と逆らえないようにするにはどうするか。社会的な噂などによる攻撃というのは今も2chや週刊誌などで良く見られます。ゴシップで人を叩く、真偽定かならぬ噂を広める、思い込みによるレッテルで人を非難する。こういう社会戦は反抗する術を持たない相手には効果的でした。

 陳寿の場合、特に罪人の息子というだけでも十分に叩く要素がありましたが、それに加え前述の親不孝とされる行動が有りましたから、恨みに思う人間が攻撃に使うのには格好のネタと言えます。

 一度叩かれた人というのは、以後、本人に落ち度はなくともそういうイメージが定着することにより、叩きやすい相手となる場合があります。陳寿は親不孝とされる行為を二度、しかも葬儀に関する問題でやらかしているので、後世の人からも叩きやすい相手となったのでしょう。いくつかいわれのない非難を受ける事となりました。

後世の批判及びそれに対する検証

 後世になるとこの政敵の多さやロックな生き方の影響でしょう、批判の対象となり以下のような話題が上がります。

  • 三国志において諸葛亮をわざと悪く評価した
  • 三国志において諸葛亮の子、諸葛瞻思遠を私怨で低く評価した
  • 三国志執筆にあたり、丁儀正礼の子孫に賄賂を要求した
  • 蜀が正統なのに魏を正統として扱った

 不憫なので反論(代弁)の機会をちょっと作らせてくださいw

三国志において諸葛亮をわざと悪く評価した

諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、 官職を少なくし、時代にあった政策に従い、真心を開いて、公正な政治を行った。

忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず恩賞を与え、 法律を犯し、職務怠慢な者は、身内であっても、必ず罰した。 罪に服して、反省の情を見せたものは、重罪人であっても必ず許してやり、 言い抜けをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。 善行は小さなことでも必ず賞し、悪行は些細な事でも必ず罰した。

あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、 嘘偽りは、歯牙にもかけなかった。かくて、領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。

刑罰・政治は厳格であったのに怨む者がいなかったのは、彼の心配りが公平で、賞罰が明確であったからである。 政治の何たるかを熟知している良才であり、 〔春秋時代の〕管仲・〔漢の〕蕭何といった名相の仲間といってよいであろう。

しかし、毎年軍勢を動かしながら、よく成功をおさめる事が出来なかったのは、 思うに、臨機応変の軍略は、彼の得手でなかったからであろうか。

三国志より

 最後の一行だけを作為的に引用し、前後の文脈を全く無視した批判です。言葉の一部分だけを抜き出して批判するのは今も昔も変わらない手法ですが、ぶっちゃけ詭弁の一種です。

 陳寿の家は確かに馬謖との連座で罪人としての扱いを受けていましたが、馬謖の遺族が孔明の庇護下に有ったのと同様に、陳寿の家も手厚く保護されていたであろうことは疑いようがありません。また、陳寿自身、諸葛亮の文書集である『諸葛亮集』を自ら編纂するなど、孔明に対して一定以上の敬意をもって接しています。なによりこの諸葛亮集のおかげで晋に仕官できたわけですから、もし孔明を恨みに思うような人であれば諸葛亮集など作らないし、作ったとしても改悪を大いに盛り込み評価の対象とはならない物になっていたでしょう。よって恨みでもって悪く評価したというのは的外れな意見です。
 

三国志において諸葛亮の子、諸葛瞻を私怨で低く評価した

諸葛瞻は書画にたくみで、記憶力が良く、蜀人は諸葛亮を愛している事もあり、その才能を愛した。朝廷に何か善政やよい事がある毎に、諸葛瞻の発案ではない事でも、「葛侯のなされた事だ」と喜んだ。そのため美声溢誉となり、その実質を越えていた。
三国志より

 これも最後の一行だけ取り出した作為的な批判です。

 要するになんでもかんでも、いいことが有れば諸葛瞻のお陰だともてはやすようになり、実力以上に持ち上げられていたよと言う事実が書かれているだけで、決して低く評価するための物ではないです。

三国志執筆にあたり、丁儀の子孫に賄賂を要求した

 そもそも丁儀の一族は曹丕子桓によって皆殺しにされているので、誰やねんそれって言う話でして。

蜀が正統なのに魏を正統として扱った

 いつものですw 蜀漢正統論ですw

 王朝の流れとして、漢⇒魏⇒晋なので、魏を正統としなければ晋も正統ではないっていう所を、プロパガンダの為に、僻地に追いやられた蜀が正統と曲解した意見を押し通した結果、さらに非難の的にされるという結果に。

 蜀漢正統論は曲げすぎ。ほんとに。面白きゃそれでいいってのは三国志演義まででいいと思うのですw

外史&関連人物

 この人の代から先は言い出すときりがなくなるので割愛します!w

  • 最終更新:2020-01-05 10:38:22

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