鍾繇元常

影の薄い重臣

 優秀な人物であるにもかかわらず、三国志演義での活躍が少ないためにマイナーな存在になってしまった人、というのはちょこちょこみられるのですが、鍾繇はその一人でもあります。戦場に立たなかった訳ではないのですが、馬超孟起を従えたために蜀漢正統論の影響を受けカットされたものと思われます。

 基本的には文官と言う事も有り、影は非常に薄い人です。

 元は献帝に仕えていましたが、李傕稚然郭汜が実権を握った長安から共に脱出した後、曹操孟徳の臣下になります。鍾繇は馬騰寿成韓遂文約を説得する任務が与えられ、両者は帰順の意を示しました。

 曹操と袁紹本初の戦闘が激化してきた頃には馬を支援するなど後方で活躍していたそうです。

甥を切られる

 袁紹滅亡後、残党の袁尚顕甫が異民族をそそのかし反乱がおこります。これの平定の為平陽を包囲した際、郭援(鍾繇の外甥)や高幹元才が平陽の援軍として派遣されます。親戚とはいえ主君が違えば敵同士。鍾繇の援軍として派兵された龐徳令明により郭援は打ち取られ、鍾繇は号泣したと言います。

 龐徳は陳謝しましたが、公私は別なので龐徳が謝る必要はないと言ったとか言わなかったとか。偉い。

洛陽の人口回復

 董卓が長安に遷都してからと言う物、元の首都であった洛陽はどんどん人が居なくなっていたそうです。まぁそらそうか。

 この人口を何とか回復させようと言う事で、関中から人を移住させたとか。

 関中ってどこやねんって話なんですけどもねw 黄河の支流の一つに渭水ってのがありまして、この渭水が生んだ渭水盆地・渭水渓谷全体を指すそうです。洛陽の西にある函谷関より西、涼州より東にあり、長安はここに設置された都です。

 一定の広さの平地と水が豊かで、四方が山に囲まれているため、人口を養いやすく守り安い、と言う理由から昔は首都がよく建設された地域でもあります。

 ここから洛陽へと人を送り、人口回復に努めたのも鍾繇の功績として称えられています。

魏の重臣に

 曹操が魏王になった時に、大理(刑罰を担当する部署の長)に就任して、大活躍していたとの事です。魏諷子京が反乱を起こしたため、推挙した鍾繇も連座で一時的に免職となりましたが、曹丕子桓が魏王になると再び大理の任につきます。

 曹丕とはかなり仲が良かったとか?

 で、この間、彼は一貫して、死刑を廃止し肉刑の復活を主張していました。要するに身体刑で、足や鼻などの切断を刑罰として適用しようというものでした。

 彼が死刑廃止を唱えた背景は、現代のような人権意識から来るものではなく、この時代、人口は国力と国力と直結していたためです。洛陽の人口回復を見ても思うのですが、とりあえず罪人だろうが何だろうが人をまず増やす。で、その後の治安維持などは法で何とかする。そういう方針を取っていたように思います。

 結局この議論は、元々肉刑に対して残虐だと言う印象から否定的であった人が多かったため計画だけで終了していましたが、主張に筋は通っていたのかなぁと思います。

 230年に惜しまれながら死亡しました。80歳。この時代で考えるとすげー長生きだ。

外史

横山三国志

 一応馬超の長安攻めを防衛する立場で登場しますが、一番輝いているのは司馬懿仲達を呼び戻すシーンでしょう。

 謀反の疑いで一時的に追放されていた司馬懿でしたが、それを機に諸葛亮孔明が北伐を開始したので、実は孔明が恐れていたのは司馬懿では無いかと説き、前線へと復帰させます。

 これがね、いい演出なのですよw

 この発言が、司馬懿こそが孔明のライバルで、読み手に対してこの人に防がれたのなら仕方ないよねっていう印象付けを上手い事やってるんですよね。もちろん三国志演義ですから、これも蜀漢正統論による歪みです。司馬懿の子孫が立ち上げた晋を正統とする為に、魏は悪、蜀は善、蜀が滅んでから立ち上がった晋も善。なので、司馬懿も善、もしくは最低でも好印象でなければならないと。

 劉備玄徳と曹操の対比とはまた異なるコントラストで、良く出来た話だなとほんと感心します。

蒼天航路

 ちょっとだけ登場します。西涼を攻めるにあたってひょっこり現れるのですが、耳毛以外に特徴のないおじいちゃんであったため、言われて初めて思い出すレベルに影が薄いです。

 おかしいなぁ、蒼天航路は活躍のできる作品のはずなのにw

一騎当千

 登場しません。

恋姫†無双

 登場しません。

三極姫

 mob武将での存在を確認しました。さすが三極姫。能力もそこそこ高い人材です。まぁ使わんがな。

関連人物

息子


  • 最終更新:2017-08-03 11:06:30

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