趙韙

劉焉と共に入蜀した人

 元々は中央でお仕事されてましたが、劉焉君郎と共に蜀に入り軍事を担当していました。劉焉の没後は劉璋季玉を推挙しています。

188年 劉焉と共に益州へ。
189年 董卓仲穎が政権を握り暴政を敷いたため中央から逃亡する人が多数、益州へと流れ込む。劉焉は彼らを東州兵として迎え入れる。
191年 張魯公祺が劉焉の命を受けて漢中に侵攻。中央に繋がる橋を落とし、劉焉の独立志向が強くなる。
?年 劉焉による強行姿勢が露骨になり、迎え入れた賈龍も反乱を起こすがおそらく東州兵の活躍により鎮圧される。
194年 劉焉病没。劉璋を推挙。劉璋は東州兵を統率できなかったので趙韙に問題を任せる。
195年 巴郡を三分割して新たに固陵郡・永寧郡を立てることを進言。
200年 これまで色々と進言したものの採用が少なかったことに不満を覚えたため劉表景升と結託して反乱を起こす。東州兵の反撃などにより鎮圧される。

東州兵との関係

 さてこの人の場合、キーワードとなるのは東州兵です。元々中央から流れてきた人々を迎え入れ兵士として編成したものですが、これは同時に劉焉が配下に招き入れた人の中にも益州出身ではないよそ者が少なからず存在するという事を示しています。

 組織を運営する以上、東州兵の中でも細分化された編成が存在します。まとめる人も当然必要となります。彼らの推薦で流れてきた人が文官武官に就くことは自然な流れです。そしてこれこそが劉備玄徳の入蜀が進められた背景の一つとなっていきます。

 顕著な例としては法正孝直ですが、彼は司隷出身で流れ者です。劉備の入蜀時には法正と同じく早々に隆昌に見切りをつけた人が多数でています。残って抗戦した人、降伏した人の出身を比べてみると面白いかもしれません。

張松子喬 益州蜀郡 機密の地図を劉備に渡す
法正 司隷扶風郡 出迎え後、軍師として劉備に同行
孟達子度 司隷扶風郡 出迎え後、劉備に同行
張任 益州蜀郡 涪城で敗走後雒城にて徹底抗戦。出撃時に捕虜になる。忠義を貫いて斬首される。
冷苞 涪城で抗戦するも敗走。綿竹へ後退。以後は不明。
劉璝 劉循と共に雒城にて籠城。劉循の一族。
鄧賢 涪城にて抗戦するも敗走する。
呉懿子遠 兗州陳留郡 おそらく東州兵担当。防戦箇所については不明だが降伏。
李厳正方 荊州南陽郡 綿竹関の守備にあたるが早々に投降。
費観賓伯 荊州江夏郡 李厳と共に綿竹担当。李厳と共に降伏。
劉循 荊州江夏郡 劉璋の子。雒城にて1年以上の徹底抗戦。
厳顔 益州巴郡 張飛益徳と戦闘し捕虜に。論破された張飛が逆にもてなしたため感じ入って降伏。
許靖文休 豫州汝南郡 成都が包囲された際、劉璋を見捨て成都城を脱出を試みる。
李恢徳昂 益州建寧郡 劉備が勝つと考え使者として赴く。劉備に気に入られ、馬超孟起説得などの活躍をする。
黄権公衡 益州巴西郡 徹底抗戦。劉璋が降伏したのを聞いてやっと投降。
鄭度 益州広漢郡 防衛のため焦土作戦を提案。

 徹底交戦を選んだ人、早々に降伏を選んだ人を分けると以下のようになります。

徹底抗戦 降伏
張任 益州 張松 益州
冷苞 法正 司隷
劉璝 劉璋の一族 孟達 司隷
鄧賢 呉懿 兗州
劉循 劉璋の一族 李厳 荊州
厳顔 益州 費観 荊州
黄権 益州 許靖 豫州
鄭度 益州 李恢 益州

 出身がわからない冷苞、鄧賢を除けば、徹底抗戦を選んだ人物は益州出身か劉璋の一族です。おそらくは両名も益州出身でしょう。一方で降伏を選んだ人物の出身は益州出身が居ないことはないですが殆どが流れ者です。また、張松も李恢も一応動機のようなものは存在します。

 張松はかねてから劉璋に不満を持っていた法正と親友で、劉備と話しただけで侵攻を受け入れるほど劉備の弁舌は達者では無いでしょう。元々、スキあらば劉璋を見限るつもりだったと見て良いでしょう。

 李恢は上司の董和幼宰が荊州出身です。上司に対する忖度の結果、どちらが優勢かを冷静に判断できたのだと思います。

 趙韙自身の反乱の際、彼ら東州兵は劉璋に協力しましたが、これは趙韙が東州兵を罰する立場にあり恨みを買っていたためです。しかし、東州兵は益州にも劉璋にも愛着はありませんでしたので、劉備入蜀にあたってはより出世ができそうな劉備を選びました。劉璋の統率力のなさが露呈した一件だと思います。

外史

横山三国志

 登場しません。

蒼天航路

 登場しません。

一騎当千

 登場しません。

恋姫†無双

 登場しません。

三極姫

 登場しません。mobで出てもいいかなと思いましたが……。

関連人物

 特にありません

  • 最終更新:2018-07-12 10:16:04

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