済北郡
領城
変遷
調査メモ
1.06で解消済み
済北国の変遷が怪しい。年表に疑問有り
反董卓連合結成時には鮑信が済北国の相であったため、190年頃は国。
済北郡だったのでは?
相=国の王が治める領土の官僚。統治の代行者。
当時は群の太守とほぼ同等。
国=皇族が諸侯王として領有する郡は国。
すなわち、相にであった、あるいは推挙されたという事は、この頃は済北国。
年表の212年の記述はどこから?
崇徳侯、劉邈の在位が212年から220年
4世劉鸞の就任期間が163年~?年
5世劉政に至っては?年から?年と不明
可能性として一番高いのは反董卓連合時点では劉政が在位する済北国
212年に済北王となった劉邈は始封とされるため、済北王はどこかで済北郡になっている
時期は?
参考になるかも
>劉次は17年で死に
劉次の在位期間はwikpediaが正しいなら、146年 - 162年で16年。17年目に他界する前に次いだとすれば在位期間との整合性は出る。
>子の劉鸞が継いだ。劉鸞の子の劉政が継い
いずれにせよ劉鸞の在位期間は不明。
>子が耐えたから、206年に国を除かれた。
>清河王と同じ歳に国を除かれているから、曹操が整理をしてしまったのだろう
これが正しいとするならば、206年までは済北国。もう少し調べましょう。
*子が耐えたは、子が絶えたの誤字か
206年、劉政死去の記述アリ
206年に劉政死去で間違いなさそう。
- 最終更新:2021-12-20 11:49:12