曹植子建
三国志で1,2を争う文豪
その才能は兄にも引けを取らないという事で魏の後継者争いの御輿に担ぎあげられますが、曹丕が即位してからは一気に衰え、最終的には鬱をこじらせて死亡してしまいます。
アーティストにありがちな無頼
先輩の奥さんに投げかけられた疑問ですが、「アーティストの人ってどうして左に寄るんだろうね?」と問いかけられたことが有ります。愛やら平和やらというものを前面に出すとそっちに寄りがちなんだろうなとは思いますが、根っこの部分は自分勝手な自己表現だと思うのですよ。自分個人の個性を認めさせる代わりに、他人の個性、つまり多様性を認め、多様性を認めるがゆえに保守的な概念には反発すると。
曹植もそのような人でして、礼儀作法には特にこだわらず、酒好きで奔放。どちらかというと穀潰しの無頼で、曹操の子供だったからこの時代でも生きて行けたのではないかなと思います。正味の話、一国を預かる太子としてはどうかなと……。
事実わきまえていない所が散見されまして、例えば天子専用の道路を通って場外に出る無法。曹仁子孝が樊城にて、大雨の中関羽雲長に包囲されて苦戦している時に救援を命じようとするも泥酔していたと言う緊張感の無さ。勅使に対して無礼な振る舞いをするなどの思い上がり等、バランスを取りながら保たなければならない身分にするには、かなり問題が有ったのではないかと思います。
曹操が後継を迷ったとも言われますが、兄の曹丕が25の時、曹丕は副丞相に任命され、曹植が25の時には留守を守る諸侯と同程度の扱いでしたから、正直迷っていたとは言い難いです。曹植が26の時には曹丕は太子に指名されますから、かなり早い段階で評価は定まっていたように見えます。
曹丕は若いころから戦場に出ていたと言う反論も有ろうかと思いますが、それは曹植も同様です。14の頃からの従軍経験がありますから、曹操が曹丕と曹植の人柄を見る時間は十分にありました。結局のところ、この後継者争いに関する曹操の迷いのようなものも、蜀漢正統論にの余波による歪みと結論付けていいように思います。
やや怪しいエピソード
曹植は、いかに詩文の天才であったかを示すエピソードがいくつかありますが、そのうち何点かは怪しいなぁと言わざるをえない物があったりします。
曹丕が魏王になって直後、後継者争いをしていた曹植に対して、「7歩、歩く間に兄弟を題とした詩をつくれ。出来なきゃ殺す」と迫り、豆に例えた詩を作りまして、後の世に「七歩詩」と呼ばれる故事になったんですが、そもそもこいつが怪しいw
後継者争いの決定打ともなる出来事ですから、正史に何かしら記述が有ってもよさそうなもんですがそれが無く、また、曹植の持ち味である力強さ、豪快さに欠ける、軟弱な詩でして。そもそも豆て。
同じ元から生まれたのに何で殺しあうんだろう的な内容なんですが、曹植自身は戦場で功を立て、願わくば兄弟と共に運命を共にしたいって言う発想なので、もっと血の気の多い詩になるかと思います。互いに殺しあう事に疑問を呈するとしても、調理される豆はないわw
また、兄嫁である甄氏に恋慕を抱いており、その思いを洛神の賦と言う詩にしたとも言われていますが、これについても論争がありまして。誰かが「こうだ!」と力強く主張すると、たとえそれが各省の無い物であっても同調する人が現れるもんです。現代だと、幽霊やUFOなどのオカルト、そして宗教はそのいい例です。お金なんかもそうですね。あれも冷静にみればただの紙きれです。2000年もたてば、只の紙にそんな効果が有るわけが無いと言い出す人も出るかもしれませんw
脱線した話は置いといて、曹植に対して後世の評価が高くなるのには、結局のところ前述した蜀漢正統論の影響、余波によるものだと言ってよいのではないかと思います。敵の敵は味方、すなわち、曹操や曹丕と敵対した曹植は持ち上げられなければならない、もしくは曹操、曹丕は下げられなければならない。そういう意図による貶めがここにも見られるなぁと。
うがったものの見方するようになったなぁと自分でも思います。ハイw
詩人としての評価は本意にあらず
曹植自身、文章で評価される事をあまり良しとしておらず、どちらかと言えば戦場で武功を立てたい人であったようです。もし、彼が曹操の子供では無かったとしたら、もう少し行儀の良い生活をしていたのではないかなと思うのです。曹操の子というだけで、調子に乗る材料は十分にありますから。
歴史にifを持ち込んでも仕方ないのですが、もし、曹植が後継者に選ばれない立場の人間であれば、曹丕に良く仕えた武将、文官として違った活躍もしたのではないかなぁと思います。
アーティスト気質の人は大抵そうなんですが、作品作りに没頭するあまり、不器用な世渡りをしてしまい孤立する傾向が有ります。曹植もその例に漏れず、後継者争いに敗北してからは僻地に追いやられ、親族でありながら臣下という複雑な立場に苦悩していたようです。
最期には、特にこれと言った喜びも無く41でこの世を去るという実に早くて地味で悲しい最期を迎えます。後継者争いがこの人のピークでしたな……。
爵位メモ
211年 | 平原侯 |
214年 | 臨淄侯 |
221年 | 安郷侯 |
221年 | 鄄城侯 |
223年 | 雍丘王 |
?年 | 浚儀王 |
?年 | 雍丘王 |
?年 | 東阿王 |
?年 | 陳王 |
県王になった年は?
外史
横山三国志
後継者争いの下りで登場します。そこしか登場しないんですけど。
才能あるもう一人の後継者と言う形で紹介され、7歩の間に詩を読めっていうお題を二つこなして、母親が泣きながら登場して何とか事なきを得るっていうシーンなんですが、まぁ、良く記憶に残ってます。
そこに至るまでの間に、曹操が悪人であると言う刷り込み、その跡を継いだ曹丕も悪人だろうと言う思い込み、そこに後継者である曹植にいわれのないこじつけを作ろうとする様に、なんてひどい奴なんだと。狙い通りですやん自分w っていうw 今思い返すとねw
まぁ、いかに三国志演義の構成が上手く出来てるかですよ。ほんとに。感心するw
蒼天航路
蒼天航路は結構登場回数が多いんですよ。記憶が確かなら、初登場は曹丕よりも早く、袁紹本初と曹操が開戦する前、曹操の下に一時的に身を寄せていた劉備玄徳が裏切って徐州を分捕る直前。荀彧文若がたまたま曹植に遭遇して、「講義しとうございます」と現状、曹操を取り巻く情勢がどういった物か、と言う物を解説した際の聞き手として登場しました。この頃は割と普通の見た目w
再登場するのは、袁紹との決着がついた後。詩の才能がある、という側面を見せるため、突然壁に詩を書き始め、それを曹操が見て名前を覚える、と言うシーンです。曹操は相手に才能がないと、自分の子供ですら名前を覚えようとしませんでしたから、この表現は曹操が認める実力の持ち主であると表現するには十分でした。
蒼天航路では戦略、戦術というもの、駆け引きと言う物はあまり詳細に書かれる事が無い代わりに、他の作品と比べ人間臭い描写が多くなっています。その為か、曹丕よりも曹植にスポットがよく当たっていたように思います。
兄嫁の甄氏と駆け落ちしようとしたり、孔融文挙と詩のバトルを展開したり、何晏平叔と芸術について語ったり。かと思いきや、曹操に従軍した際、軍議終了後の司馬懿仲達と劉曄子揚の献策に感動したり、その時の記録が曹操の評価を受け、世継ぎは曹植かと周囲に思わせたり。でもやっぱり、友人が無くなった後酒におぼれてやさぐれたりw
立派なところも見せつつ、情動的に動き回ると言う、まさに蒼天曹操の子供といった一面を見せ、感情を表に出さず冷静沈着であろうとした曹丕とは対照的でした。この作品で曹植に対する興味を持った人はかなり多いと思います。
曹植の裾野を広げた、という意味ではとても意義のある漫画だったなぁと。まぁ名作なのでそれ以外にも功はありますがw
一騎当千
出ませんw まぁ、子供はね。出づらいよね。
恋姫†無双
出ませんww
三極姫
出ませんw この辺はね。仕方ないね。
関連人物
父
母
兄弟
- 最終更新:2023-01-11 16:46:34